立命館大学国際平和ミュージアム Kyoto Museum for World Peace, Ritsumeikan University

WEB展示 寄贈資料紹介 Introduction of donated materials

  

『昭和十六年当用日記』 ── ある工場労働者の日記

 『昭和十六年当用日記』(194111日~1231日)は、茨木のペンキ工場で働いていたある労働者の日記です。この日記の持ち主である「章司」は、工場労働者として「三度のパンを得るため」だけに働く日々のなかで、ときに「食ふだけの労働」よりは「軍需産業で働きたい」と記すほどに、人生の意味を見出せずにいました。彼がそうした労働の憂さを晴らすためには、映画と酒の存在が不可欠だったことも、毎日欠かさずに綴られたその日記からはみてとれます。

 1941年(昭和16)128日、「章司」は早朝のラジオでアジア・太平洋戦争開戦の一報を聴きます。「意義ある一日だ!俺応召の日!一日も早からん事を只すら祈る!……銭湯ののち、末廣映画劇場へ行く!インチキ映画のため半退する!映画見物どころではない!」。彼は開戦から数日ほどは、「戦線を偲びて早くより床に入る」などと時局に応じた生活態度もみせていましたが、相変わらずの労働生活が続くなかで、次第に「昨夜!泥酔!……頭痛を耐えて出社する!」「昨夜の焼酎!……酒は見るのも嫌だ!」と、痛飲の習慣だけは捨て去ることができませんでした。

 日記という資料には、誰に読まれるとも意識されない個人の日常的な体験が綴られています。『昭和十六年当用日記』は、「章司」という一人の工場労働者の日常のなかに、戦争という出来事がどのように映じていたのかを知り得るための貴重な資料となっています。

 


屏 風 ── 従軍した兵士の記録

 15年戦争にかかわる資料のお問合せが多い中、日露戦争にまつわる資料もご寄贈いただきました。

 この屏風は、末尾に「本書ハ予力出征ノ際所属シタル近衛歩兵第三連隊第三大隊ノ征露誌ニシテ素ヨリ長日月ニ渉ル戦史ノ一班ヲ記述シタルモノ」とあるとおり、近衛歩兵第3連隊の一員として従軍した兵士(寄贈者の曽祖父)の記録を伝える資料です。1904年(明治372月の開戦後、同5日に動員され、翌年、戦争が終結すると12月に東京の兵舎に戻り、召集が解かれるまでの隊の動向が、几帳面な筆跡で六曲屏風に著されています。第3連隊は他の部隊とともに広島の宇品港から出港し、鎮南浦(現朝鮮民主主義人民共和国南浦特別市)から朝鮮半島に上陸します。その後は道路整備や架橋作業をしながら行軍し、九連城や蛤蟆塘での戦闘、沙河、奉天の大規模な会戦(いずれも現中華人民共和国遼寧省)に参加しました。

 退役後、彼は京都に戻り、家業の呉服屋を営みました。これは福井の旅館で清書されたもので、妻がそのための墨をひたすら磨り続けたというエピソードが語り伝えられています。従軍の状況を伝える「従軍日誌」や各隊が制作した「記念アルバム」などは多数残されていますが、従軍記録を自ら調度品に仕立てた事例は珍しく、この屏風は制作のエピソードとともに当時を知ることのできる貴重な資料です。


 

坂本正直「莫愁湖―馬たちはみていた」 ── 南京の記憶

 本作品は、画家・坂本正直(19142011)の「クリークの月(戦争)」と題された連作の一つです。月光が湖面を美しく照らすなか、湖岸の暗がりには何か不穏なものが姿を現しています。そこには、人間の手や刀剣、脱ぎ捨てられた軍服、そしてこちらを見つめる青白い馬たちの姿を認めることができます。

 坂本正直は、1937年(昭和12)より約3年半のあいだ日中戦争に従軍し、南京から長沙まで中国各地を転戦しました。坂本は戦地で初めて中国兵を殺害した夜のことを次のように回想しています。「南京には夕方着いて莫愁湖の近くに宿舎を定めました。あちこちに火災が見え、城壁の周りの堀を渡って多数の中国兵が逃げてくるのが見えました。……その晩、歩哨に立っていて、突然目の前に現れた中国人を撃ってしまうのです。それなのに歩哨を交替した後、平気で眠ったと思うのです。そのとき月が出ていたのですが、どのくらいの月だったかは分かりません。それが「クリークの月」です。弔いのような気持ちで描いています」。

 坂本は「馬」たちの戦争体験を描き続けたことでも知られます。戦地に赴いたのは人間だけでなく、数多くの動物たちが大陸へと渡りました。馬たちは戦場で〈何を〉見たのか。坂本は、その夜の自分たち人間の非業を見つめる馬たちのまなざしを、戦後幾度となくカンヴァスに描き続けました。


 




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