立命館大学国際平和ミュージアム Kyoto Museum for World Peace, Ritsumeikan University

WEB展示 寄贈資料紹介 Introduction of donated materials

  

「吾等のメロディー」 ── フィルムのなかの戦争

 「吾等のメロディー」は、立命館大学予科の学生たちが1931年に自主製作した短編映画です。16ミリフィルムに収められた本作品には、英語の授業中に居眠りをする学生や学生同士の喧嘩のシーンなど、当時の立命館大学生の何気ない学生生活の挿話が、本人たちの寸劇を交えてコミカルに描かれています。その一方で作品からは、満州事変勃発にともない彼らの学生生活のなかにも、少しずつ戦争の暗い影が射し込みはじめていたこともみてとれます。

 画面は突然、学生たちの穏やかな学生生活を断ち切るかのように、満州事変を報じる「新聞号外」を映し出します。校内には軍歌が張り出され、教壇には配属将校が立っています。将校は「蒋介石」「張学良」「国際聯盟」などと書かれた黒板の前で、地図上に浮かぶ「満洲」を指差します。そのとき将校が叫びます。「“そこで寝て居るのは誰だ‼︎”」。その声に、教室には緊張が走ります──。

 しかし、本作品で学生たちが本当に描きたかったのは、むしろその将校の叱責のあとに教室を包み込んでいった、学生たちの「笑い」にこそあったようです。軍事教練中に居眠りをするクラスメートをも一笑に付してしまう、そんな「自由」の残り香が、このときまだ大学の教室のなかには漂い続けていたことを感じさせる一幕です。

 


予科練の教科書・参考書

 予科練とは、旧日本海軍における航空機搭乗員の養成制度で、海軍飛行予科練習生の略称です。航空兵力を拡充するため、1930年(昭和5)に横須賀に開設されました。1939年には霞ヶ浦に移転し、甲種、乙種、丙種などの教程が整備され、選抜試験を通った14歳半ばから17歳までの少年たちが、海軍の航空兵として採用されて基礎訓練を受けました。開設から終戦までの15年間で約24万人が入隊し、このうち24千人が戦地に赴いたとされています。

 これは、193911月に乙種第12期練習生として入隊した寄贈者の父親が、実際に使用していた教科書と参考書です。これらは予科練独自のもので、通常の学校の教科書とは異なり、どれも巻頭は「本書ニヨリ□□□ヲ習得スベシ」という司令官の命令ではじまります。当時の練習生には、搭乗員として必要な専門知識だけでなく、国語、数学、歴史などの一般教養の修得が義務付けられ、敵性語である英語も課せられました。慣れない用語や重点箇所には線が引かれるなど、教科書からは航空機乗りを目指して勉強した16歳の少年の姿が彷彿とされます。練習生たちは、座学や軍事教練などの厳しい訓練を受けた後、次は飛行練習生となって実地訓練に進みました。

 寄贈者のご厚意により、教科書の他に父親が戦後にまとめた『自分史』もご提供いただきました(非公開)。資料そのものの整理とあわせて、関連情報の整理も行うことで、資料にまつわる歴史や記憶を記録し、平和を希求した故人の思いとともに次代に引き継いでいきます。

 

レシピ集 ── tried and true recipes from AMERICAN HOME

 1941年(昭和16127日(日本時間8日)、日本軍はハワイ・オアフ島真珠湾のアメリカ海軍を攻撃しました。翌年2月、大統領令9066により、アメリカ西海岸地域の日系人は立ち退きを命ぜられ、国内10か所の「戦時転住所(Relocation Center)」に収容されました。日本の真珠湾攻撃を境に、アメリカの日系人は「敵性外国人」とされ、憲法で保障されるべき市民の自由と権利が奪われていきます。

 これは、アリゾナ州ヒラリバー(Gila River)戦時転住所の職業訓練で使われていたレシピ集と伝えられています。「シチュー チキン」「マヨネーズ」「ビスケット」「アップルパイ」などのレシピが、英語と日本語で書かれています。ヒラリバーでは収容所内農業が行われ、野菜や果物づくり、畜産も盛んでした。それにより、戦時下の収容所という特殊な住環境でも、野菜やバター、肉や卵など自給自足の食材を利用した調理訓練が可能だったのでしょう。

 寄贈者のお話によると、レシピの持ち主(寄贈者の叔父)は20歳前後に身一つで渡米しますが、不況のあおりを受けて各地を転々としました。ロサンゼルスにいた頃にヒラリバーに送られ、収容所内のコックスクールで職業訓練を受けました。閉所後もアメリカに残り、レストランを経営して生活しました。

 




1 2 3

pagetop